モーシェ・フェルデンクライス(1904~1984)
モーシェ・フェルデンクライスは、1904年5月6日に旧ロシア領(現在のウクライナ共和国領)のスラヴータという街で生まれました。
その後、家族はバラノヴィッチ(現在のベラルーシ領)に引っ越し第一次世界大戦の戦火の中高校時代を過ごします。(高校でヘブライ語を学んだそうです)
1918年にパレスチナ(現イスラエル)へと旅立ちます。
1930年にパリへ行き、工業大学へ入学し1933年に卒業。機械工学、電気工学を学びました。
同じ年、柔道の創始者、嘉納治五郎と出会い親交を深めます。彼は、ヨーロッパで最初の黒帯取得者で、パリの柔道連盟結成に尽力します。
また、卒業後はソルボンヌ大学で勉強をしながら、ラジウム研究所のフレデリック・ジュリオキュリー博士(キュリー夫人の娘婿)の元で、研究助手として働き始めます。
第二次世界対戦が激化し、ドイツ軍がフランスに侵攻した1940年。イギリスに脱出しました。英国海軍の科学士官として、スコットランドの対潜水艦調査などを行います。フランスから脱出時、潜水艦のデッキの上で再発した膝のケガを治すために自分自身の体と向き合い、 医者には手術しても治る確率は50%以下だと言われていてたケガを乗り越えました。
そして、その新しいアイディアを一連の講義や実験的な授業として身近な人に教え始めたそうです。
その後、1946年に海軍を離れロンドンに移り、民間企業でコンサルタントなどの仕事をします。
ロンドン在住時に最初の著書を出版。また、柔道の書籍なども出版しました。
ロンドン滞在の期間には、
エニアグラムの先駆者 ジョージ・グルジェス、
アレクサンダー・テクニークの創始者 FM・アレクサンダー、
ベイツ・メソッドの創始者 ウィリアム・ベイツ
などと交流を持ちその手法などを学んだそうです。
1951年からイスラエル軍のエレキトロニクス部門を指導するためにイスラエルに戻り、1954年頃から首都テルアビブに定住し、フェルデンクライス・メソッドだけで生計を立てるようになります。
アレクサンダー・ヤナイ通りのスタジオでグループレッスンのクラス、母親と兄が住んでいたアパートで個人レッスンの提供をはじました。
イスラエル初代首相のデビット・ベングリオンにもレッスンを提供し始めたそうです。
1950年後半になると、フェルデンクライスはヨーロッパやアメリカでフェルデンクライス・メソッドを発表し、著書も出版します。1968年には、個人レッスンをする専用のスタジオを作ります。
1969年(~1971年)には、最初のフェルデンクライス・メソッドのティーチャートレーニングを開催します。最初の受講者は12名だったそうです。
1975年(~1978年)には、サンフランシスコで65名に
1980年には、アムハーストで235名の生徒の教育を行いましたが、
1981年秋に病気となりフェルデンクライスは公に教えるのをやめます。
そして、1984年7月1日に亡くなりました。
<著書>
「Body and Mature Behavior」 (1949)
「Awareness Through Movement 」 (1972) :邦訳「フェルデンクライス身体訓練法」
「The Case of Nora 」 (1977) :邦訳「脳の迷路の冒険」
「Elusive Obvious」 (1981)
「The Master Moves 」 (1984) :邦訳「心をひらく体のレッスン 」
「The Potent Self」 (1985)