モーシェ・フェルデンクライスは、そのメソッドを開発するにあたりいろいろなものを勉強しました。
その中に、グルジェフの考え方も入っていたそうです。
正直、グルジェフがどういう人でどんな思想をもって、どんなワークをしていたのかは、詳しく知らないので、
すべてどこかの受け売りなのですが、
グルジェフは自身のワークの中で、ムーブメントやダンス、音楽を使っていたそうです。
その動きの中に、体の各部を日常的ではない方向やリズムで動かすものがあり、
これは、筋肉を混乱(muscle confusion)させることによって、自分の体への気づきをもたらし、身体への意識を高めていくようなものだったようです。
フェルデンクライス・メソッドでは、レッスンの動きの中に、わざと動きをあべこべにして動くようなものも入っています。
これは、身体の動きの機能の分化と未分化を体験することによって動きの統合を目指すものです。
こうする事によって、体の動きが楽になったり軽くなったりしてきます。
普段やらない動きを体験する事により、脳神経系が活性化して新たなる動きを脳が覚えていく、つまりは脳の可塑性(変化する事)を利用したレッスンの中の一つのアイディアです。
ずっと、モーシェのオリジナルのアイディアだと思っていたのですが、こんなところからヒントを得ていたのだなぁ~と
思うとともに、本当にモーシェはたくさんの事を勉強していたのだなと思いました。
ただ、まったく同じものではなく、
モーシェは、赤ちゃんの動きを研究してこのアイディアを動きの再学習として昇華させていき、
グルジェフは、リズムや音楽を用いて自己の覚醒を促す舞踏(ダンス)へと昇華させていった結果として、
まったく違うもの?に感じるかもしれません。
注)まったくの私見です。いつ何時考え方が変わるか分かりません(笑)
さて、前置きが長くなりましたが、タイトルの「本質(エッセンス)と人格(パーソナリティ)」
グルジェフが語っていたことなのですが、
「本質は人が生まれながらに持っているもの」(本能的な好き嫌いなど)
「人格は生後育った環境において身につけたもの」(言語、動作、価値観など)
本質が人間の真実であり、人格は仮面である。
人格は忘れるが本質は忘れない。
人格の本当の能力は、本質の発展を支え、本質の発現を可能にすることにある。
したがって、本質と人格が平行して発達するのが理想的な人間の発展である。
という事らしいです。
なるほどなと思います。
モーシェも著書の中で、環境的要因が及ぼす影響について語っていました。
社会の中で生きて行くには、切っても切り離せないものですし、相互に影響して高めあえたら素晴らしいですね。
グルジェフは、そんな理想的な発展は非常に稀なケースで、
現代の社会の枠組の中では、人は生まれるとすぐに必要以上に強力な外部の影響を受け、また幼少期から教育制度によって大量のお仕着せ教育を受けさせられる結果として、偏った発達が起きると言っています。
外部からの人工的影響に圧迫されると、本質の成長が阻まれ、成人になっても本質は5、6歳の水準で成長を止めてしまっている例も珍しくなく、
自己のもつ本質と人格という二つの部分のアンバランスは、たいていの人が時おり感じるものの、
本質が人格という厚い表皮に覆われてしまっていて、また、人は身につけたものは自分自身のものと考える傾向があるので、
本質と人格を区別することは非常に難しいものであると言っています。
グルジェフは、言語という手段を用いて生徒を指導することは稀で、
”経験”という忘れることの出来ない方法を用いたそうです。
言語によるお仕着せの答えは、たんなる知識として頭に入るだけで、
経験から得られる答えは、人の全存在で感じる理解であり、理解するという事が、
人間の存在の成長を意味すると考えていたようです。
なんとなく、モーシェの言葉に通ずる事があるように思いました。
言い方や言い回しは、違いますが、根本的には同じ様な事を考えていたのだろうなと思います。
というか、グルジェフの思想の影響をだいぶ受けていたんでしょうね。
ただ、本質に働きかけて何をしたいんだって話にもなるし、
そういう事ばかりをいうと、神秘的(オカルトチック)でボディーワークというよりは心理学や宗教的なものになりかねませんが、人の体に触る、何かを教える仕事をしている以上はそういう部分も意識したいなとは思います。
個人レッスンでも、グループレッスンでも、レッスンの中で、
突然泣き出したりと感情が抑えきれなくなる人をたくさん見てきたのでなんとなく・・・・
前回書いた、施術者の存在も、こういう人の本質に影響を与える何かがあるのだろうなとは思います。
というか、
しっかりとそういう本質に良い影響を与えられるように、自分自身を磨かなければならないんだろうなと感じます。
人間って難しい